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Date: 2017-05-22 16:27

 
しば「すごい! これ、どうなってるんですか!?」

お兄さん「それでは、近づいて触って確かめてください」

普通の美術館は作品のタッチはNGだが、トリックアート美術館の場合は作品に触れてもOK!
 
仕掛けが分かっても、不思議な感覚がずっと残るのがトリックアートのすごいところ。いきなりビックリしたところで、不思議な旅へ出発!
 

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 時代は戦争に突入していた。本書のエルザはその渦中での自分の動向と感想をてきぱきと綴っている。
 エルザは「世界」をもっと体で知る必要があると思い、モスクワに行ってエカテリーナ2世以来のスラブ・ファッションに目を凝らし、赤軍兵士の軍服を観察し、スターリンの悍ましい正体を見抜いた。
 ミュンヘンやベルリンでは、少年がヒトラー・ユーゲントという「美少年」になる経緯を発見し、ハウス・ファーターラントではナイトクラブがファシズムによって強烈な美に変貌する魔法の秘密を会得した。けれども、あるときムッソリーニから招待されたときは、「興味ありません」と断った。その直後から、エルザはイタリア入国を拒否された。

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 男たちとの出会いも続いた。何かの用で家にやってきた不恰好なロシア人がしばらく滞在して、エルザに結婚してほしいと言ったのだ。
 するりとその申し込みを抜けると、そのロシア人は僻地に行ったまま、優しくも美しい手紙を次から次へと送ってきた。それから自分が持っている大事なものもすべて送ってきた。彼はその後、謎めいた死を遂げた。
 一方で、多感なエルザは若い画家に夢中になっていた。ローマにいるその画家のアトリエに行ってポートワインを飲み、何時間も松の木陰に座った。家の者たちは妖しいロマンスを嗅ぎ付け、画家が身分のよくない女とすでに婚約中であることをつきとめた。エルザはこの未発の恋のための真実を求めて画家の実家を訪れた。ドアからその女が出てきた。気がおかしくなったエルザはそのまま画家の家を去ると、ただやみくもに歩いた。涙が頬を流れた。
 満員のバスに乗った。すぐそばに花束を持った男がいて、「悲しそうですね、この花が幸運をもたらしますように」と言った。なぜか薔薇を一本差し出した。たちまちエルザは恋に落ちた。こういうところがエルザなのである。
 しかしまたしても家がエルザの恋を邪魔した。この瞬間から、愛人を集めることにした。ただし、藤色が好きな男だけを。

語壷 - 語源辞典 - みさきちの壷

 エルザは自分の部屋をお気に入りに仕立てると、そこからお店のイメージを連想していった。部屋をボートの中のようにして、色とりどりのスカーフ、ベルト、セーターを乱雑に置き、内装をバスクの海岸地図で埋めた。
 自分でかぶるための小さなニットの帽子は、建物の中で見た空気チューブそっくりにした。この帽子は女優のアイナ・クレアがかぶったので爆発的に流行し、アメリカでは「マッド・キャップ」と呼ばれた。
 ツイードの生地を買いにロンドンに行くときにこれがいいと思って自分でつくったキュロットスカートは、そのまま人気商品になった。テニスプレイヤーのリリー・アルバレスが穿いてくれた。
 ロンドンのアッパー・グローヴナー通り36番地に出店したのも、こういう勢いのせいだった。

 エルザ・スキャパレリは1890年9月のローマに生まれた。父親はオリエント学やエジプト学を専門とする考古学者で、王立図書館の館長でもあった。鱈の料理だけはほしがったが、びっくりするほど控えめだった。
 母はマルタ島の山羊の乳で育った。たいへん厳しく、またたいへん呑気だった。いとこのエルネスト・スキャパレリはエジプト学者だった。伯父のジョヴァンニ・スキャパレリの名は天文学ファンなら知らない者はいない。
 ぼくは高校時代までスキャパレリといえば、このミラノの天文台長で、例の「火星の運河」の発見者のことしか知らなかった。

 エルザはもう一人の大事な人物とも出会った。室内装飾に革命をもたらしたジャン・ミシェル・フランクだ。質素と贅沢を組み合わせるセンスは、フランクから学んだ。
 いよいよエルザは動き出す。1928年のドゥ・ラ・ペ通り4番地の屋根裏部屋を皮切りに、洋服作りを始めた。
 エルザのやり方は何かのインスピレーションに出会えば、すぐにそれを試してみるという方法だった。日本ではこれを「当意即妙」とか「行き当たりばったり」と言う。茶の湯なら「取り合わせ」だ。エルザの場合はたとえば、アルメニア人の農婦が着ているセーターに目を奪われるとそれに似たものをつくり、リンドバーグやアメリア・イアハートに感心したときは飛行服(エアロプレーン)をつくった。
 イタリアからガブ・デ・ロビラント伯爵夫人がやってきたので、二人はサンジェルマン大通りに住むことにした。フランクがオレンジ色の巨大カウチと緑色の肘掛け椅子を提供してくれた。

 エルザは夫が仕事でニューヨークに行ったので、付いていくことにした。ラテンクォーターのブルブートホテルなどでの急場のホテル暮らしであったが、たちまちお金が底をついてきた。
 夫はだらしなく、アメリカに対抗する気力をちっとももっていなかった。ほとんど裸同然のイサドラ・ダンカンが夫をものにしようとしていたが、そんなことはどうでもよかった。そのうち夫は行方知れずとなった。
 エルザは身ごもっていた女の子を生んだ。ゴーゴーという愛称で呼んだ(本書にはしばしばゴーゴーの話が出てくる。そうとう溺愛したようだ)。エルザは一人で仕事を見つけなければならない。フランシス・ピカビア夫人やブランチ・ヘイズがゴーゴーを預かってくれた。
 でも仕事は見つからない。1920年、グリニッジ・ヴィレッジを足場にしてみたがさっぱりだった。ブランチ・ヘイズの提案でいよいよパリに行くことにした。

 世界大戦はいつ終わるか知れなかった。エルザはプリンストンに仮寓しながらアメリカ赤十字の学校に入り、やけどの治療法、骨折した脚の処置法、傷の止血法を学んだ。すべてが新しい言語のようで、身に滲みていった。
 やってみると病院のベッドメーキングひとつ、看護婦の衣裳ひとつがファッションだった。エルザはハッとした。「死」や「病気」にファッションが介入していなかったことを思い知らされた。

 こうして戦後のエルザ・スキャパレリの伝説がふたたび世界に伝わっていったのである。
 しかしそれらを1954年まで連打すると、エルザはすっぱり仕事から手を引いた。どうしてそうしたかは、謎のままだ。メゾンは閉ざされ、エルザは本書を綴った。
 時代がエルザを置き去りにしたのだろうか。あるいはそうかもしれない。
 1947年のクリスチャン・ディオールのニュールック、クリストバル・バレンシアガのサックドレス、ユベール・ド・ジバンシィのベッチーナブラウスは、たしかにエルザの“戦闘力”から遠のいていくものだった。ぼくは1954年にビリー・ワイルダーが『麗しのサブリナ』を公開し、そのヒロインのオードリー・ヘップバーンをジバンシィがデザインしたとき、エルザは覚悟したのだと思っている。

 こうしてあれこれの準備が整い、充分にそのブランド名も知られていた1935年、ヴァンドーム広場21番地にメゾン「エルザ・スキャパレリ」が鳴り物入りで開店した。
 予想通り、またたくまに評判になった。夜会用スカート、デート用ブラウス、街着のセーターなどを「すぐに持ち帰れる」ようにしたからでもあった。パリ中のクチュリエたちがスキャパレリを真似た。
 香水もつくった。フランクが金色の鳥籠をデザインしてくれたので、そこに入れて売った。ベッティーナ・ジョーンズはウィンドウを“だらしなく”ディスプレーしてくれた。木製のマネキンを店頭ショーウィンドウのシンボルにした。「金髪のパスカル」と名付けた。これも評判になったので、ちゃっかり「パスカリーヌ」という伴侶もつくった。
 エルザは未来派やシュルレアリスムの異才たちとも果敢に交じっていった。コクトー、ダリ、マン・レイ( 74夜 )、マルセル・ヴェルテス、キース・ヴァン・ドンゲン、セシル・ビートン、フランシス・ピカビア、マルセル・デュシャン( 57夜 )たちがその突飛な勇気と交流した。ポワレや伯爵夫人たちが良き媒介者になってくれた。
 とくにクリスチャン・ベラールのイラストレーションとホルスト・P・ホルストの写真とは息がぴったり合った。ぼくは“ベベ”ことベラールの闊達自在なファッション・イラストレーションこそこの時代の象徴だと思っている。ベラールは舞台美術家としてもサイコーだ。

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